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ー蘇った聖域ー ボブ・クリアマウンテンの新たなスタジオとメッセージ

2026.03.02

デビッド・ボウイ、ブルース・スプリングスティーン、ローリング・ストーンズ、ブライアン・アダムスといった世界的アーティストの作品を数多く手がけてきた名匠、ボブ・クリアマウンテン。その名は、音楽制作の歴史において一つの頂点とも言える存在として広く知られている。

彼が32年にわたり数々の名作を生み出してきた“聖域”ともいえるスタジオ「Mix This!」は、2025年1月のロサンゼルス火災によってやむなく失われることとなった。長年連れ添った機材、壁に刻まれた名盤の記憶、そしてエンジニアとしての魂が息づいていた空間が失われた時の喪失感は、計り知れないものだったに違いない。

それでも、レジェンドの音が途絶えることはなかった。焼け跡の中から救い出されたわずかな思い出を胸に、彼は新たな拠点へと前進したのだ。この再起は、単なるスタジオの再建にとどまらない。それは、音楽業界に息づく真の絆と、技術への尽きることのない探求心が、いかにして絶望を希望へと昇華させるのかを体現する再生の歩みである。

新スタジオに併設されたガーデンには、焼け跡から救い出されたベーゼンドルファーのフレームが佇んでいた

ロサンゼルスのApogee本社からほど近い場所に位置する、ボブ・クリアマウンテンの新スタジオ。一歩足を踏み入れると、ぬくもりを感じさせる木材に包まれた空間が広がっていた。そのスタジオに込められた設計コンセプトや機材へのこだわり、さらには次世代のクリエイターへ向けた想いについて、ボブ・クリアマウンテン本人から直接話を伺うことができた。

ボブ・クリアマウンテン

伝統的な感性 x 現代的なアプローチ

新スタジオは、かつてDolby Atmosのリスニングルームとして使用されていたアパートの一室を、ボブと元アシスタントのブランドン・ダンカンが音響設計および物理的なトリートメントを施し、本格的な制作空間へと改装したものである。設計には3Dソフトが活用され、壁のカラーリングやソファの配置に至るまで、ボブやその妻であるベティ・ベネットの意見を即座に可視化しながら検討が進められた。こうして完成した空間は、伝統的な感性と現代的な設計アプローチが融合したスタジオとなっている。

左右壁面のディフューザー

左右壁面のディフューザーには「デジタル・バイナリ・アンプリチュード・ディフュージョン(二進法振幅拡散)」パターンが採用されており、視覚的な美しさと高精度な音響拡散性能を両立している。これはブランドン・ダンカンが設計したもので、定在波の散乱や、室内のエネルギー感を損なわない拡散特性を数学的に導き出した仕様だ。また、ウオルナット材の採用はベティのアイディアによるもの。パネルの継ぎ目を巧みに隠す機能性に加え、日本の伝統工芸を想起させる温もりと洗練された質感を空間全体にもたらしている。

吊り天井型の吸音体(クラウド)

上階が住居スペースであることを考慮し、天井には4層の異なる素材で構成された吊り天井型の吸音体(クラウド)を設置。これにより遮音性能を高めると同時に、内部には定在波対策としてベーストラップも組み込まれている。さらに、階段下にもベーストラップを配置して低域をコントロール。リスニングポイントについても定在波の影響が最小となる位置に最適化されるなど、空間全体で精密な音響設計が施されている。

スタジオ後部のディフューザー

アルジ兄弟から提供されたコンソール

スタジオを失ったボブに、いち早く手を差し伸べたのは、クリス・ロード・アルジと、その兄トム・ロード・アルジだった。火災から間もないうちに、彼らは自らスペアとして保有していたコンソールの提供を申し出たのである。

トム・ロード・アルジから譲り受けたそのSSLコンソールは、当初EシリーズとGシリーズのEQが半々で混在する仕様だった。しかし、ボブが長年愛用してきたサウンド志向に合わせ、すべてのチャンネルストリップをEシリーズへと交換した。この換装は、クリス・ロード・アルジが所有していたスペアパーツの提供によって実現したものであり、結果としてアルジ兄弟の協力によって完成した特別なコンソールとなった。

スタジオのセンターセクション上部に設置されたプレート。かつての「Mix This!」スタジオにあったコンソールの復元に際し、支援を寄せた人々への深い感謝の意が刻まれており、「2025年、灰の中からの再生」との言葉が、その再建の歩みを静かに物語っている。

コンソールには16チャンネルのアナログ・コンプレッサーが組み込まれている。これはボブの右腕であるブランドン・ダンカンと、ルーカス・ファン・デル・ミール(元Apogee)が、ヴィンテージのVCAカードや回路を解析し、彼のワークフローに最適化する形で特別に設計したカスタム仕様だ。

また、マスターフェーダーは繊細なレベルコントロールと滑らかなフェードアウトを実現するため、特注のロータリーノブに変更されている。

センターセクション中央部に据え付けられた Apogee Control ハードウェア・コントローラー

さらに、イマーシブ・オーディオ制作に不可欠な「Apogee Control ハードウェア・コントローラー」もコンソールに一体化されている。スタジオには計4台のApogee Symphony I/O Mk IIが導入されており、そのうち3台はアナログ接続でSSLへ音声を送り、残る1台はレコーディング用として、SSLでミックスされた音の録音・再生を担う構成だ。

Apogee Symphony I/O Mk II

Symphony I/O Mk IIのソフトウェアは、ワンボタンでステレオ、5.1ch、Atmosの各フォーマットを瞬時に切り替えることが可能になっている。これは今回のスタジオ再建に合わせたものではなく、以前からボブの要望に応じて再設計されていたプログラムだ。

こうしたシステムの中枢を担うApogee ControlがSSLのセンターセクションに組み込まれたことで、SSLとApogeeの融合が物理レベルで実現した、まさに特別仕様のコンソールに仕上がっている。

歴史的な名機たちは「友情の証」

スタジオのラックには、歴史に名を刻んできた名機の数々が整然と並んでいる。それらは単なるヴィンテージ機材ではなく、火災によってすべてを失ったボブのために、仲間たちが託した友情の証ともいえる存在なのである。

ビル・パットナム(Universal Audio)から提供されたUniversal Audio 1176(2台)

スティーブ・ジャクソン(Pultec)から提供されたPultec EQP-1A3(2台)

デイヴ・デア(Empirical Labs)から提供されたEmpirical Labs Fatso EL7X

Eventideから提供されたEventide Omnipressorと、アンソニー・アニェッロから提供された博物館級の Eventide H910 Harmonizerオリジナルモデル。

ブルース・スプリングスティーンからベティに贈られた直筆のイラストレーション

壁に飾られたイラストレーションは、ブルース・スプリングスティーンがベティの誕生日に贈ったものだという。スタジオ火災から避難する際、ボブがとっさに手に取り持ち出した、数少ない大切な思い出の品のひとつである。

「前のスタジオは今でも恋しいです。でも、ここも本当に気に入っています。何より、私を支えてくれたすべての人に感謝しかありません。機材よりも大切なのは、人なんです。」ボブはそう語ってくれた。

ボブのモニタリング哲学

長年にわたりDynaudioのモニタースピーカーを愛用してきたボブだが、新スタジオではGenelecのシステムを導入している。音響計測や自動補正機能を備え、ルームアコースティックの課題を高精度に解決できる点を高く評価したためだ。とはいえ、ボブのモニタリング哲学は、単なる機材のスペックや機能性だけに依存するものではない。

ボブはこう語る。「以前のスタジオ(Mix This!)では、音響補正システムを使っていませんでした。30年もの間、同じ部屋でミックスを続けてきたので、その鳴り方に完全に慣れていたんです。人間の脳は本当に優れたコンピューターで、部屋の特性に適応して補正してくれるんですよ。このスタジオの隣にあるApogee StudioではNeveのコンソールとNeumannのモニターを使っていますが、しばらくその空間にいれば、部屋の鳴り方に適応するように脳が調整してくれるんです。」

まさに"弘法筆を選ばず"という言葉を体現するかのように、彼は自らが熟知しているリファレンス音源を再生し、その響きを脳内でキャリブレーションすることで、どのような環境下においても的確なミックス判断を下せるのである。

「才能を見極め、集中せよ」次世代へのメッセージ

1970年代、プロデューサー志向が高まっていた時代に、ボブ自身もプロデュースに挑戦した経験があるという。しかしその過程で、彼は自らの本質的な強みがプロデュースではなくミキシングにあることを見極め、その才能を最大限に発揮できる道へと集中する決断を下した。

インタビューの締めくくりに、ボブは日本のクリエイターたちへ向けて、力強いメッセージを送ってくれた。

「やりたいことと、得意なことが一致するとは限りません。まずは自分の才能がどこにあるのかをしっかり見極めてください。そして、それを見つけたなら、自分の才能が最も輝く場所に情熱を注ぎ続けることです。決してあきらめず、誰かに『君には無理だ』などと言わせてはいけません。」

さらに彼は、従来のレコード制作にとどまらず、ゲームオーディオやイマーシブ・オーディオといった新たな分野にも視野を広げていくことの重要性についても言及し、次世代の音楽制作の可能性に期待を寄せていた。

大きな喪失を経験しながらも、ボブ・クリアマウンテンは歩みを止めることなく、新たな環境で音と真摯に向き合い続けている。その姿から伝わってくるのは、音楽への純粋な情熱と探究心である。

数々の名作を生み出してきたレジェンドが、今なお第一線で精力的に創作を続けているという事実は、私たちに大きな勇気と希望を与えてくれる。スタジオという空間は変わっても、彼の耳と感性、そして音楽に対する誠実な姿勢は何一つ変わっていない。その揺るぎない姿勢こそが、時代を超えて名作を生み出し続けてきた理由なのだろう。

よみがえった新たな聖域には、過去の記憶と仲間たちの想い、そして未来へと向かう確かな意志が宿っている。ボブ・クリアマウンテンの音作りは、これからも世界中のクリエイターにとって、変わらぬ指針であり続けるだろう。

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