2026.02.11
プロオーディオ業界において、AMS Neveは単なる機材メーカー以上の存在として確固たる地位を築いている。
一方には、Neveブランドが象徴する伝説的なアナログサウンドの伝統。もう一方には、AMSが切り拓いてきたデジタルオーディオ技術の革新性。この二つの潮流が融合したことで、業界の進化を牽引する比類なき企業が誕生した。
本記事では前回に引き続き、AMS創業者でありマネージング・ディレクターを務めるMark Crabtree OBE 氏への取材内容を踏まえながら、プロデューサー/ミキシング・レコーディングエンジニアの加納洋一郎氏とともにその歴史と思想をひも解いていく。
前回記事 >> AMS Neve 本社ツアー:オーディオのイノベーションが誕生した地
ルパート・ニーヴ氏が1961年に設立したNeve Electronicsは、アナログオーディオ設計のパラダイムを確立し、その礎を築いたパイオニアにほかならない。
Neveサウンドがどのようにしてレコーディング文化を形作る「音の基準」となって行ったのか、その軌跡はNeve機材の歴史そのものと重なっている。初期のミキシングコンソールから、後に伝説と呼ばれる名機群へと至る流れをたどりながら、Neveシグネチャーサウンドが形成されていったプロセスを振り返ってみよう。
Phillips portable 10-channel mixer
1964年にロンドンのフィリップス・スタジオ向けに、世界初の商業的なトランジスタベースのミキシングコンソールを設計・製造し、真空管からソリッドステート(半導体)への革新的な移行を主導。
Wessex A88 console
1970年、エセックス・スタジオ向けに開発されたA88コンソールの一部として1073マイクプリアンプ/EQモジュールが導入された。クラシックNeveサウンドの象徴である1073のシグネチャーサウンドは、ディスクリートClass A回路設計とカスタムMarinairトランスの使用に由来する。Class A回路は、おもに心地よい二次高調波歪み(ハーモニック・ディストーション)を生成し、信号に温かみと豊かな質感を与える。トランスフォーマーによるフィルター効果が高周波のロールオフをもたらし、サウンドに奥行きと調和的な豊かさをもたらす。
Neve 1081
1972年に開発された1081マイクプリアンプモジュールでは、より高いヘッドルームと柔軟性を持つClass A/B回路を採用。クリーンな歪み特性とフルパラメトリック4バンドEQにより、トラッキング時の音作りから緻密なミックス処理までを一台で担う、より現代的で多機能なキャラクターを確立した。
Neve 8068
1968年から1979年にかけて製造されたNeve 80シリーズはその音質が高く評価され、1970年代のハイエンド録音スタジオ市場を席巻。80シリーズはモジュール式アプローチを採用しており、スタジオが特定の録音や放送ニーズに合わせてコンソールをカスタマイズできる汎用性も魅力だった。
Neveサウンド ——それは、NirvanaからDire Straits、Pink FloydからQueenまで、数え切れないほどのクラシックレコードでその名を刻んできた、伝説的な響きである。世界中のミュージシャンやエンジニアが追い求める、豊かで音楽的な音質の代名詞であり、いつの時代もコンソールの頂点に君臨している。
ドキュメンタリー映画『サウンド・シティ - リアル・トゥ・リール』でデイヴ・グロールが示したように、そのコンソールは単なる機材ではなく、音楽史そのものなのである。
AMS創業当初のマーク・クラブツリー氏
AMS創業者マーク・クラブツリー氏は、英国が世界に誇る企業の経営者としてイギリス王室からOBE*を受勲した経営者であると同時に生粋のエンジニアであり、いまも同社の製品開発で重要な役割を担っている。
彼はキャリアの初期、ルーカス・エアロスペース社で航空宇宙工学のエンジニアとして航空機に搭載される最先端の電子機器設計に携わっていた。この経験で培われた高度なデジタル技術の知見と、彼自身の音楽制作への情熱がAMSの技術的基盤ともいえる。航空宇宙分野で求められる究極の精度と信頼性という思想は、後の製品開発における品質哲学にも深く根付いている。
AMSの原点は壮大な事業ビジョンからではなく、クラブツリー氏個人の音楽制作における極めて個人的な課題解決にあった。氏はギターやピアノを演奏し、ビートルズの楽曲などを自身でレコーディングしていたが、自らの歌声にコンプレックスを抱いていたという。エフェクトをかけないとひどい音に聞こえるという率直な悩みを解決するため、彼は様々なエフェクターを自作し始める。その中で、当時使用していたテープループ式のエコーマシンが頻繁に故障することに不満を抱き、より信頼性の高い代替品を作ろうと試みたことが、事業化への直接的なきっかけとなった。
AMS Neve本社ロビーに展示されている DM 2-20 tape phase simulator
当初開発されたフランジャー DM 2-20 tape phase simulator は、彼の個人的なレコーディング環境を改善した。しかし、この製品をマンチェスターの著名なバンド 10cc のスタジオに持ち込んだ際、決定的な転機が訪れる。彼らはフランジャーを高く評価しつつも、「君のフランジャーは素晴らしいが、我々が本当に欲しいのはデジタルディレイラインなんだ」という具体的なフィードバックを返してきたのだ。
この瞬間こそ、AMSが「市場の具体的な要求に応える」という製品開発哲学を確立した最初の事例といえるだろう。航空宇宙工学で培ったデジタル技術を応用すれば、その要求に応えられると確信したクラブツリー氏は、製品開発の舵を切った。
この最初の成功体験はその後の製品開発における、顧客との対話という好循環を生み出す原動力となった。一つの製品が新たなニーズを呼び起こし、その声に応えることで次の技術革新へとつながっていったのである。
多数のAMS機材を背にしたポール・マッカートニー
AMSは顧客からのフィードバックを原動力に、次々と画期的なデジタル製品を世に送り出す黄金時代を迎えた。この対話的な開発プロセスは一見すると受動的だが、じつは競合他社を何年もリードする極めて戦略的なものであった。このプロセスこそ、同社をデジタルオーディオ業界のフロントランナーへと押し上げた核心であり、その成功はプロオーディオの歴史そのものを形成していった。
DMX15-80(2台)と RMX16(2台)を手にするケイト・ブッシュ。
10ccからの要望に応える形で、1979年に初のデジタルディレイライン DMX 15-80S が開発された。クラブツリー氏が自宅の屋根裏部屋で設計したこの製品は、当時の技術水準をはるかに超える性能を誇っていた。特に、1秒のディレイタイムと18kHzの広大な周波数帯域は、当時としては驚異的なスペックだった。
これはまさに、彼の航空宇宙工学のバックグラウンドがもたらしたものであり、音楽機材業界の常識とは一線を画す「完璧でなければならない」という思想が反映された結果だった。この圧倒的な性能は、プロの現場が求める品質基準を完全に満たし、瞬く間に業界の新たな標準機としての地位を確立した。
さらに特筆すべきは、そのモジュール式の設計思想である。初めから拡張性を考慮して多数のソケットが用意されていたため、後からディレイタイムを延長したり、全く新しい機能を追加したりすることが容易だった。この拡張性の高い設計が後のピッチシフター開発へとつながり、製品のライフサイクルを飛躍的に伸ばすことに貢献したのである。
S-DMX、RMX16、DM2-20
DMX 15-80S の成功は、すぐさま次の要求を生み出した。「ディレイは素晴らしい。次に必要なのはハーモナイザーだ」。この声に応えるため、クラブツリー氏は当時ヨーロッパで初めて入手したというIntelの最新プロセッサ 8086 を活用し、高精度なピッチシフターを開発。彼が技術の最先端にいたことを示すこのエピソードは、AMSの革新性を象徴している。DMX 15-80S のモジュラー設計のおかげで、この新機能は既存製品へのアドオンとして提供することが可能だった。
AMS RMX16
ピッチシフターが市場に受け入れられると、今度は「デジタルリバーブが欲しい」という声が上がった。この一連の製品進化は、まるでユーザーとの対話がそのまま製品ロードマップになったかのようだ。一つの課題解決が次の課題を提示し、それに応えることで技術が深化していく。このサイクルこそが、AMSの技術力と市場対応力の高さを何よりも雄弁に物語っている。
AMS AudioFileを操作するクライアント
AudioFileの登場は業界のワークフローそのものを根底から覆す、まさにパラダイムシフトであった。それまで編集とは物理的なテープをカミソリで切り貼りするという、一度行うと元に戻せない破壊的な作業を意味していたが、AudioFileがそのすべてを変えたのだ。
その誕生のきっかけは、あるBBCのダビングエンジニアが抱えていた具体的な悩みだった。彼は、日本のアニメ番組をウェールズ語に吹き替える作業で、AMSディレイのループ機能を使って台詞を録音し、映像のタイミングに合わせて差し込んでいた。彼はこの機能を絶賛しつつも、電源を切ると録音した音がすべて消えてしまうのが問題だとクラブツリー氏に伝えた。この課題に対しクラブツリー氏が提示した解決策は、ハードディスクに保存すればいいという、当時としては革命的なアイデアだった。これが、世界初のハードディスク・レコーダー / エディターであるAudioFileの開発に直結したのである。
AudioFileがもたらした非破壊かつ瞬時の編集能力は、人気テレビ番組『マイアミ・バイス』のようなサウンドトラック制作でその威力を発揮し、ポストプロダクション業界全体への普及を爆発的に加速させた。テープ編集の呪縛から解放されたエンジニアたちは、かつてない創造的な自由を手に入れたのである。
クラブツリー氏は、この技術を映画制作の世界に確立した功績が評価され、2004年に科学技術オスカーを受賞している。
AMS Logic 1
AudioFileの成功によって、AMSはデジタル・オーディオ・ワークステーションという新たな市場を確立した。するとユーザーからは、ごく自然な流れとして次の要求が生まれた。
「素晴らしいワークステーションがあるのだから、次はそれに連携するデジタルミキシングコンソールが欲しい」という声に応える形で開発されたのが Logic 1 である。このコンソールは、後のフィルムコンソール市場におけるAMS Neveの揺るぎない地位を確立する礎となった。
DMX 15-80S から始まった一連のデジタル製品群は、AMSが持つ技術的優位性を明確に示し、後のNeve社との歴史的な統合において、同社が重要な役割を担う存在であったことを裏付けるものだった。
1990年代初頭、アナログサウンドの権威であるNeveと、デジタル技術の雄であるAMSという、異なる文化を持つ二つの企業がシーメンス社の傘下で統合された。これは単なる企業買収ではなく、アナログの伝統とデジタルの革新性が融合し、現代のプロオーディオ業界の礎を築く歴史的な出来事であった。
両社の関係性は極めて補完的だった。まさに「アナログに少しのデジタルを持つNeve」と、「デジタルに少しのアナログを持つAMS」の出会いだったのである。この組み合わせは、互いの弱点を補い、強みを最大限に引き出す理想的なものであった。
AMS創業者、マネージング・ディレクター Mark Crabtree OBE 氏
その後、シーメンス社が事業再編を行う中、マーク・クラブツリー氏は統合された新会社を自ら買い戻すという大胆な決断を下す。これにより、彼は伝説的なブランド「Neve」を、創業者であるルパート・ニーヴ氏本人が率いた期間よりも長く率いることになった。Neveのアナログ哲学とAMSのデジタル技術という二つのDNAを受け継いだ新生AMS Neveが、こうして誕生したのだ。
この歴史的な統合によって生まれた新生AMS Neveが、両社の強みを活かしてどのような新製品を開発していったのか。その成果は、現代のスタジオコンソールの進化に明確に見て取ることができる。
合併後のAMS Neveは、両社が持つ技術的資産を見事に昇華させ、現代のスタジオコンソールの新たな標準を次々と打ち立てていった。その製品哲学の核心にあるのは、Neve伝統のアナログサウンドの温かみや音楽性と、AMSが得意とするデジタルの高度な操作性・柔軟性をいかに両立させるかというテーマであった。
AIR Studiosに導入された Neve 88R Console
長年にわたり業界標準であったVシリーズの後継機として、AMS Neveは世界最高の音楽用コンソールを目指して Neve 88R を開発した。これは、新生AMS Neveがその技術力のすべてを結集したフラッグシップ・アナログコンソールである。開発にはNeve Electronis 時代にルパート・ニーヴ氏とともに開発を担い、Neveの根幹を知るエンジニア、ロビン・ポーター氏が中心となった。
その完成度の高さを象徴するエピソードとして、2001年のトレードショーでの出来事が挙げられる。会場を訪れたルパート・ニーヴ氏本人がこの Neve 88R を目の当たりにし、「これは素晴らしい(This is fantastic)」と絶賛したのだ。創業者自身からのお墨付きは、88R がNeveブランドの正統な進化形として、その魂を受け継いでいることを証明するものであった。
Neve Genesys
Genesysコンソールの開発背景には、現代の音楽制作環境の変化に対する深い洞察がある。
クラブツリー氏は、息子が雑然とした機材に囲まれながら音楽制作に取り組む姿を目にし、こうした現代の制作スタイルに本当に適合したコンソールが必要だと強く感じたという。彼はこの体験を通して、「雑然としたベッドルーム」こそがプロオーディオの新たなフロンティアであると認識し、品質を犠牲にすることなくその混沌を収拾する答えとしてGenesys構想を描き出していった。
その設計思想は、コンソールの本質であるスイッチ、フェーダー、メーターという基本要素に立ち返ることから始まった。そこに、リコール可能なコントロール設定やハードウェアプラグインといった、AMS由来の高度なデジタル制御技術が融合されている。サウンド面では、伝説的な1073マイクプリアンプや88R/1084 EQといったNeveの伝統的なアナログ回路を内蔵。これにより、ProToolsなどのDAWとの高度な連携を実現しながらも、妥協のないアナログサウンドを提供することに成功した。このハイブリッド思想は長年の改良を経て、アナログ領域での包括的なAtmos対応を実現するなど、今なお進化を続けている。
Neve Genesys G3D
Neve DFC3D デジタル・フィルム・コンソール
映画業界においても、AMS Neveは現場のニーズに応えることでその地位を不動のものにしている。特にDFC(デジタル・フィルム・コンソール)は、ハリウッドのダビングエンジニアたちの要求に基づいて進化を続けてきた。その代表的な機能が、「次に来る音を視覚的に確認できる波形表示」や、音楽・台詞・効果音の各担当者が一台のコンソールを分割して独立作業できるパーティション機能であり、これらはすべて現場の声から生まれたものだ。
ここで特筆すべきは、DFCで培われた最先端のデジタル技術とステム / オブジェクトの実装が、フラッグシップ・アナログコンソールである新しい 88R の開発に直接フィードバックされたという事実である。これは、社内でアナログとデジタルのチームが緊密に連携し、互いの知見を共有する「アナログの魂、デジタルの頭脳」という理念が企業文化として深く根付いている証といえる。
近年では、いち早くDolby Atmosをはじめとするイマーシブオーディオに対応し、ハリウッドの大作映画制作に不可欠なツールとして、その優位性をさらに高めている。
AMS Neveの強みは、コンソール製品そのものにとどまらない。高品質な周辺機器群と、品質を単なる仕様ではなく「文化」として根付かせてきた独自の製造哲学こそが、同社の卓越性を支えている。製品の品質を根底から支える企業文化と生産体制があるからこそ、イノベーションを継続的に生み出すことが可能なのだ。
DAWの台頭は、音楽制作の現場を大規模スタジオ中心の時代から、小規模なプロジェクトスタジオへと大きく広げていった。一方で、その変化は新たな課題も浮き彫りにした。オーディオインターフェースに搭載されたマイクプリアンプの品質がボトルネックとなり、プロが求める音の解像度や質感を十分に引き出せない、という問題である。
Neve 1073DPX-D
これに対し、AMS Neveは1073マイクプリアンプをはじめとする高品質なアウトボード製品を提供することで、録音環境の質そのものを底上げした。これにより、スタジオの規模や場所を問わず、誰もがNeveサウンドで高品位な録音を行える環境が整えられていった。その結果、プロオーディオの経済性とワークフローは大きく変化する。自宅で録音したボーカルを Abbey Road Studios で収録されたオーケストラと同一のセッションでミックスするといった、現代的な制作手法が現実のものとなったのだ。
Neveサウンドは、もはや一部のトップスタジオだけが独占する存在ではない。新世代のクリエイターにとって憧れでありながら、現実的に手の届く「標準」へと変化したのである。これはNeveサウンドの民主化であり、同時に新たな市場を創出したのである。
AMS Neveの発展史は、単なる技術開発の物語ではない。それは、つねにユーザーであるアーティストやエンジニアの声に真摯に耳を傾け、彼らが現場で直面する現実的な課題に応え続けてきた歴史でもある。
アーティストの悩みを解決するためのシンプルなデジタルディレイから始まり、AudioFileによるポストプロダクションのワークフロー革命、そして現代のAtmos対応ハイブリッドコンソールに至るまで、その進化の道のりはすべて市場ニーズへの応答という一貫した「傾聴」の哲学が貫かれている。ユーザーからのフィードバックこそが、同社のイノベーションの羅針盤であり続けたのだ。
アナログの魂とデジタルの頭脳を併せ持つAMS Neveは、これからもプロオーディオ業界における対話の中心にあり続けるだろう。そして、未来のクリエイターたちの声に耳を傾けることで、オーディオ制作の新たな地平を切り拓き、そのあり方を定義していくに違いない。
MIXING ENGINEER
Yoichiro Kano
株式会社ミキサーズ・ラボ チーフエンジニアからフリーランスを経て、2024年株式会社サウンド・シティ イマーシブdiv. 責任者に就任。
バンド、アーティスト作品のみならず、映画、TVアニメ、TVドラマ、Game、CM、舞台と多くの分野で幅広く活動、近年はDolbyAtmos、360 Reality Audioなどイマーシブ制作にも積極的に携わる。
個人ワークリスト等はこちら
Neveがもたらす生命感と深み
加納氏:Neveサウンドは音質そのものの良さもあるとは思いますが、使ってみると音に「生命感」と「音楽的な奥行き」が付加されるような気がします。
たとえば1073や1066などでドラムを録る時はマイクプリのゲインを少し高めに設定し、トランスを軽くサチュレーションさせ、程よい倍音を得ることでキックやスネアのアタックに「パンチ」と「太さ」を加えて、オーバーヘッドではシンバルの耳障りな高域を自然に整えつつ、全体に一体感のある「アナロググルーヴ」にしてくれます。