2026.03.20
本連載では、2025年現在の「ロンドン・スタジオ最前線」をテーマに、注目すべき3つのスタジオを全3回にわたりレポート。現地取材には、プロデューサー/ミキシング・レコーディングエンジニアの加納洋一郎氏にご同行いただき、専門的なコメントを交えながら、ロンドンのスタジオシーンにおける最新動向と、その背景にある思想や技術的アプローチを掘り下げていく。
第2回 British Grove Studios レポート
第3回で訪れたのは、音楽史に燦然と輝く名盤や、数々の映画音楽が生み出されてきたロンドンの名門スタジオ AIR Studios。
ザ・ビートルズのプロデューサーとして知られる サー・ジョージ・マーティン※ によって創設されたこのスタジオは、単なるレコーディング施設ではない。歴史ある建築が持つ卓越した音響空間と、世界最高峰の録音技術が融合した、まさに「音楽の聖地」とも呼ぶべき場所である。
本記事では、AIR Studiosが歩んできた歴史的な変遷をたどりながら、そのサウンドを支える中核機材 AMS Neveコンソールの役割について詳しく紹介する。
※1996年、ジョージ・マーティンは音楽業界およびポピュラー文化への多大な貢献が認められ、英国王室よりナイト爵位を授与された。
サー・ジョージ・マーティン
AIR Studiosの歴史は、1965年にさかのぼる。ジョージ・マーティン卿を中心に、ロン・リチャーズ、ジョン・バージェス、ピーター・サリバンという4人の著名なレコード・プロデューサーがレコード会社から独立し、制作会社 Associated Independent Recordings(AIR)を設立したことがその始まりである。
ロンドン・オックスフォードにあるロビンソン百貨店の4階に、最初のAIR Studiosが設立された。
1970年には、ロンドン・オックスフォード・サーカスに最初のAIR Studiosが誕生した。「プロデューサーによる、プロデューサーのためのスタジオ」という理念のもと、当時の最先端技術と快適な制作環境を備えたこのスタジオは瞬く間に評判を集め、ピンク・フロイド、クイーン、セックス・ピストルズをはじめとするアーティストによる名盤の制作拠点となった。
AIR Studios Montserrat
1979年には、カリブ海のモントセラト島に AIR Studios Montserrat を開設。ロンドンのスタジオと同等の技術設備を備えながら、リゾートのような環境で制作に没頭できることから、世界的なロック/ポップス・アーティストが次々と訪れる伝説的スタジオとなった。しかし1989年、ハリケーンによる甚大な被害を受け、惜しまれながら閉鎖されることとなる。
1991年当時のリンドハースト・ホール
その後、オックスフォード・サーカスのスタジオが建物リース契約満了を迎えたことを機にジョージ・マーティンは新たな拠点を模索し、ロンドン北部ハムステッドにある歴史的建造物「リンドハースト・ホール」に出会う。この建物は1884年、自然史博物館の設計でも知られるヴィクトリア朝の建築家アルフレッド・ウォーターハウスによって設計されたもので、もともとは宣教師の訓練センターを兼ねた教会として建てられたものだった。
1992年にオープンした新生AIR Studios
この歴史的建築を世界最高水準のレコーディングスタジオへと生まれ変わらせるため、数百万ポンドを投じた大規模な改修工事が約3年にわたって行われる。そして1992年12月、チャールズ皇太子(当時)臨席のもと、新生 AIR Studios が華々しくグランドオープンを迎えた。
現在のAIR Studios
The Hall
AIR Studiosを象徴する空間が、メインフロアに広がる The Hall(ザ・ホール)である。ここは、フルオーケストラと合唱団を同時に収録できる、世界でも数少ない録音空間のひとつだ。
もともとこの建物は、会衆による合唱のために建設された教会であり、六角形のホール構造が大きな特徴になっている。この独特の形状が音響的に優れた拡散効果を生み出し、特別な音響処理を施さなくても、当初から豊かで自然な響きを備えていたという。
ホールの天井高は約13メートル。天井には巨大な可動式キャノピー(天蓋)が設置されており、電動で約2メートルから10メートルまで高さを調整することができる。この仕組みによって、ホールの残響時間をおよそ2秒から7秒程度まで自在にコントロールすることが可能だ。
こうして、タイトで引き締まったサウンドから、壮大で広がりのある響きまで、空間そのものを楽器のようにコントロールできる点がThe Hallの最大の特徴であり、世界中の映画音楽作曲家たちがこのスタジオを選ぶ大きな理由の一つとなっている。
The Hallの両サイドにはブースが備えられ、ドラムキットなどが配置されている。
AIR Studiosが世界最高峰のレコーディングスタジオとして機能し続けるうえで、AMS Neveのスタジオコンソールは欠かすことのできない中核機材である。
The Hallが持つ独特の響きを余すことなく収録できる高いサウンドクオリティと、映画音楽制作に求められる高度な機能性。その両方を満たすために導入されたのが、世界最大級となる96チャンネル仕様のAMS Neve 88Rコンソールだ。88Rは、現代的で透明感のあるサウンドキャラクターを持ち、広帯域かつダイナミックレンジの広い映画音楽の録音に理想的な特性を備えている。
さらにAIR Studiosでは最新の88Rに加え、かつて AIR Studios Montserrat で使用されていたビンテージNeveコンソールのリモート・マイクプリアンプを48チャンネル分使用することができる。これにより、最新のデジタル制御による操作性と、往年の名盤を生み出してきた太く温かみのあるアナログサウンドの両方を、同一セッション内で自在に使い分けることが可能となっている。
近年の映画音楽やゲーム音楽の録音では、100本を超えるマイクが使用されることも珍しくない。96チャンネルという膨大な入力数を備えた88Rは、大編成オーケストラの演奏を一度に、かつ精密にコントロールするための重要な基盤となっている。
さらに、映画音楽制作に特化したモニタリングやサラウンド制作を可能にする「SP2フィルムパネル」も搭載。これにより、ハリウッド大作にも対応できる高度な制作ワークフローが実現されている。
スタジオ1
スタジオ1は、バンドや小規模オーケストラのレコーディングに適した空間として設計されている。ライブ・ルームはもともと講堂として使用されていた空間で、広い開放感と自然光が差し込む設計が特徴である。
このスタジオには、いわゆる「ルーム・イン・ア・ルーム」構造が採用されている。巨大な外殻構造の内部に、完全に独立したもう一つの部屋を設け、それをスプリングによって浮かせる構造になっている。これにより外部振動や建物伝播音を効果的に遮断することが可能となっている。さらに、可動式の壁によって室内の音響特性を調整できるため、用途に応じた柔軟なアコースティック環境を構築できる。こうした構造により、ピュアでありながら力強いロックサウンドの収録が可能となっている。
ルパート・ニーヴによってカスタム設計された伝説的なNeveコンソール
コントロールルームには、1980年前後にルパート・ニーヴによってカスタム設計された伝説的なNeveコンソールが設置されている。このコンソールは、オックスフォード・サーカス時代のAIR Studiosから受け継がれてきたものであり、世界にわずか3台しか存在しない貴重な機材として知られている。そしてその兄弟機のひとつは、かつてAIR Studios Montserratに設置されていたものだという。
このコンソールに搭載されたマイクプリアンプとEQの回路設計は、後にルパート・ニーヴが設立したFocusriteのコンソール開発へと受け継がれていくことになる。1980年代後半に登場したFocusrite Forteコンソール、さらにその後のFocusrite Studioコンソールにも同系統の回路が採用された。この回路は Input Signal Amplifier の頭文字を取って ISA と呼ばれ、現在でも定番のマイクプリアンプとして世界中のレコーディングスタジオで使用され続けている。
そのサウンド特性は単に「クリーン」という言葉だけでは説明しきれない。チャンネルストリップ自体は非常に透明度の高い音質を持ちながら、同時に巨大なヘッドルームを備えているため、ドラムやエレキギターなどの強力な入力信号に対してもサウンドが崩れることなく、パンチのあるダイナミクスを余すことなくPro Toolsへと送り出すことができる。
伝説的なNeveコンソールを備えるこのスタジオは、OasisやMuseといった英国を代表するロックバンドの魂を記録してきた場所でもある。また、日本のロックバンドTHE YELLOW MONKEYも複数のアルバムをこのスタジオで制作しており、そのサウンドは日本の音楽ファンの記憶に刻まれている。ロックバンドがこの部屋を選ぶ理由は、このコンソールが持つ独特の音楽的な響きが、バンドのエネルギーを最大限に引き出すマジックを備えているために他ならない。
AIR Studiosの魅力は、歴史的建造物としての空間やビンテージ・スタジオコンソールといったハードウェアだけにとどまらない。それらを支える人々の情熱と、常に進化し続ける制作環境こそが、この場所を世界最高峰のレコーディングスタジオたらしめている。
今回のインタビューで特に印象的だったのは、サウンドエンジニアたちが歩む厳格なキャリアパスである。キャリアは、スタジオの雑務や準備を担うランナーから始まり、アシスタントを経て、Pro Toolsを用いた高度な編集作業を担うレコーディングエンジニアへと進む。その段階に到達するまでには、一般的に6〜8年の経験が必要とされるという。さらにそこから実績を積み重ね、独立したエンジニアとしてメインコンソールを任されるようになるまでには、10年以上にわたる研鑽が求められる。
第一線で活躍する映画音楽エンジニアともなれば、20年、30年とキャリアを重ねていることも珍しくない。AIR Studiosの比類なき音響空間と機材のポテンシャルを極限まで引き出しているのは、まさにこうした熟練した職人たちの技術と情熱にほかならない。
この歴史的なスタジオでは、いまこの瞬間も、かつての名盤や名スコアを生み出した音の波が振動し続けているかのようだ。音楽を愛するすべての人にとって、AIR Studiosはこれからも創造性とインスピレーションを生み出し続ける特別な場所であり続けるだろう。
スタジオに併設されているカフェ
MIXING ENGINEER
Yoichiro Kano
株式会社ミキサーズ・ラボ チーフエンジニアからフリーランスを経て、2024年株式会社サウンド・シティ イマーシブdiv. 責任者に就任。
バンド、アーティスト作品のみならず、映画、TVアニメ、TVドラマ、Game、CM、舞台と多くの分野で幅広く活動、近年はDolbyAtmos、360 Reality Audioなどイマーシブ制作にも積極的に携わる。
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個性的な響きと、確かな信頼性
加納氏:The Hallは、メインフロアに足を踏み入れた瞬間、その名の通り豊かなホールの響きに包み込まれて感動しました。日本のレコーディングスタジオには、ここまで響きの豊かな空間はなかなかありません。
AIR Studiosは教会を改築した建物ということもあり、特に天井の高さが生み出す垂直方向の残響が印象的でした。日本人にはあまり馴染みのない教会特有の響きがそのまま広がり、建物の構造が音として現れているかのように感じられます。
一方で、コントロールルームに据えられたAMS Neve 88Rコンソールの存在は、訪れるクリエイターやエンジニアにとって大きな安心感を与えているようにも思いました。空間が持つ個性的な響きと、機材がもたらす確かな信頼性。そのふたつが見事に共存しているところに、このスタジオならではの魅力を感じました。